2019-10-16 第200回国会 参議院 予算委員会 第2号
であればこそ、白村江の戦いから日清戦争、日露戦争、韓国併合に至るまで、こういうことがあったわけでございます。 韓国がやはり隣国であるという地理は変わりませんし、先ほどの我が党からの質疑でもありましたように、やはり人口減少をしていく日本の国力、これを無駄に割くべきではないという観点からも、私はこれ以上の日韓関係の悪化を防ぐことは必要だと思います。
であればこそ、白村江の戦いから日清戦争、日露戦争、韓国併合に至るまで、こういうことがあったわけでございます。 韓国がやはり隣国であるという地理は変わりませんし、先ほどの我が党からの質疑でもありましたように、やはり人口減少をしていく日本の国力、これを無駄に割くべきではないという観点からも、私はこれ以上の日韓関係の悪化を防ぐことは必要だと思います。
在韓米軍のおかげで日本の事実上の防衛ラインは三十八度線ですし、歴史上も白村江の戦いからずっと日本はここに、日本に接する部分に、ここ見ていただいて分かると思うんですけど、本当にそばなんです。フェリーで釜山とそれから福岡は三時間しか離れておりません。ここが敵対的勢力によって占められないことを、これをずっと日本の安全保障の根幹としてやってまいりました。
外部文明について、日本がいわば世界水準の文明に準ずるものになれたのはいつかといいますと、六六三年の白村江の戦いで、大和王朝はまだ成立間もなくなのに、二万七千の大軍を朝鮮半島に派遣して、もろくも一日で惨敗したんですね。相手は唐、新羅の連合軍だったんです。唐帝国の、唐文明のすごさ、あたかも第二次大戦でアメリカ文明の強さというのを戦って思い知ったような大失敗を六六三年にやったんですね。
白村江の戦い、六六三年、百済と日本の連合軍がとうとう新羅の連合軍に負けました。そして、当時、唐がまた攻めてくるのではないかということで、大宰府を中心に、長崎の金田城、佐賀の基肄城、そして福岡の大野城、熊本の鞠智城、こういったところに古代の山城をつくりました。本当に、皆さんたちがそこで訓練をし、常に緊張感があったということで、これはやはり元寇の前の国家の危機に備えたものだと思います。
○川端国務大臣 白村江の戦いのときの天皇が、天智天皇、私の選挙区、私の住まいの大津市に大津宮、大津京をつくった、まさにそのときの時代であります。そういう意味で、私も、この時代の朝鮮半島のいわゆる新羅、高句麗、百済の歴史には非常に関心があります。その部分で、このいわゆる古代山城についても私は非常に関心を高く持っています。
大津京は、白村江の戦いという百済・新羅の戦いで負けました百済の人が亡命して、天智天皇にいろいろアドバイスをして都をつくったということのゆかりでありまして、文化的にも歴史的にも非常に縁の深いところに過ごしました。子供のときは、いわゆる在日の友達がいっぱいいました。多くがいわゆる北に帰還運動で帰ってどうなっているのか、胸が痛むようなこともありますが、周りにも友達もいっぱいいます。
この鞠智城でございますけれども、今から千三百年前に、朝鮮半島の百済を支援して白村江の戦いに敗れた大和政権が、新羅の連合軍の日本本土攻撃に備えて国家的プロジェクトとして建設した古代の山城、今、その跡地を再開発しよう、そういう事業でございます。 こういった取り組みは、まさしく、歴史的価値を広く国民に理解していただくという国家レベルの意義ある取り組みではないかというふうに私は考えております。
そのうち、白村江の戦いでは負けました。日清戦争では日本が勝ちました。日明戦争では秀吉が死んで撤退を日本がいたしまして、その前の元寇のときには神風が吹いて中国側が撤退するということで対等であります。日中戦争は泥沼になったということでありますね。
これは、もう古いですけれども、西暦六〇〇年代の白村江の戦いのときの逸話を引いて、そして、唐の大軍が日本に攻め寄せてくるよという情報を、自分が中国で奴隷になって、そしてお金を得て、日本に知らせたという逸話があるんです。
私は地元で朝鮮の、日朝関係の朝鮮の歴史をよく勉強している方から最近もお話聞いたんですが、六世紀のころからの、白村江の日本が行って敗れてきたというとき以来、あるいはそれ以前から、千年、二千年の大変な歴史があるわけです。
その後、唐になりますと、唐は新羅と組んで、日本と百済が組んで白村江の戦いという、そのときも中国が背景でございます。 今まで、朝鮮動乱もそうでございますし、明治、幕末の日清戦争も、戦争は中国で起こったのではありません。朝鮮で起こりました。
日本人が外国と戦争を起こしたのは、七世紀の白村江の戦いと十三世紀の元との戦い、あるいは十六世紀末の豊臣秀吉による朝鮮戦役、そして第二次世界大戦を含めた日清、日露、あるいは中国、朝鮮との戦争でした。近代は、世界のすべての国が巻き込まれた戦争の時代であり、日本の参加が特別侵略戦争をしたなどと言う必要はありません。欧米の植民地にならないための防衛戦と言ってよいでしょう。
白村江の戦いの終わった後、律令国家をつくりまして、あのときは都を近江に移しますけれども、あのときは、唐と新羅の軍隊が本土に上陸してくる、本土決戦かもしらぬ、こういうことで国家をつくった。それが終わってちょっと緩んで、次は元寇でまたおりてきて、これを何とか防いだ。 十九世紀になると、さっき言ったように、今度、ユーラシア周辺を取り囲んできたイギリスとロシアとが対立する、こういう構造であった。
これは皆さん御存じのように、古く言えば白村江の戦いから、蒙古襲来、それから豊臣秀吉の朝鮮侵略、朝鮮出兵、それから日本の植民地支配、こうあるんですが、もしあの昔の時代に我々の先祖がああいう戦争をしなかったり植民地支配をしなかったりしたら日本と朝鮮半島の関係というのは今どうなっていただろうかということを時々考えるんです。
先ほどおっしゃっていたように、やはり朝鮮半島との関係が日本という国の命運を決めてきた、白村江の戦いもそうだしモンゴルの襲来もそうだし、歴史的に大変重要だと。
例えば、ローマ帝国がどういうことをしたかということも、当時の歴史だっていろいろとローマの方々やヨーロッパの方々にとっては興味深いと思いますし、日本と朝鮮半島の歴史でも、それは高句麗の好太王のころはどうだったのか、白村江の戦いのときはどうだったのか、二一七四年の文永の役と一二八一年の弘安の役に元冠が攻めてきたときに朝鮮の方々も一緒に日本を攻めたのではないか、あれは侵略だったのではないか、そういうところまでやっぱり
例えば我が国と朝鮮半島との関係についていえば、私も子供に勉強を教えたときの記憶ぐらいですからよく覚えておりませんが、白村江の戦いとか任那日本府とか高句麗の好太王碑、そういうような時代から、あるいは一二七四年、一二八一年の文永・弘安の役で蒙古大襲来のときでも朝鮮半島との微妙な関係があっているわけです。
私もつくづくそのときに思ったのでありますが、例えば高句麗の好太王妃とか白村江の戦いなどという読み方を教えながら、あれくらい古い、年代がたった事実でございますと、また史料の非常に乏しい時代のことでございますと、もちろん歴史上いろんな解釈はさまざまあろうとは思いますけれども、まあこれは一定の物の見方というのが定まるのかもしれません。国によってそれほど大きく分かれないのかもしれません。
それから、これは百済と日本の連合軍が唐と新羅の連合軍に六六三年ですか、白村江の戦いで敗れて百済が滅びて、それから後、どんと日本へ百済から避難民がやってきますね。日本はどんどんそれを受け入れますね。どんどん受け入れる。しかも民族差別なしにどんどん受け入れていく。ですから、桓武天皇の生母というのは百済系の人ですね、後に太皇太后という称号を受けましたけれども。
○戸叶武君 次に、これは大化の改新以後における豪族連合体としての日本の国家ができ上がった時分に、朝鮮で問題を起こして中国との連合軍のために白村江で打ち破られたときに滅亡した百済の知識人なり有力者というものが船やいかだに乗って日本に大量に渡来した。近畿においては三分の一を超したろうと言われるような時代。
西暦六六三年、天智天皇の元年に日本は唐、新羅の連合軍と南鮮の白村江で戦いまして、大敗北を喫し、百済国はほろびまして、何百万という人間が日本に亡命して参ったのであります。つまりその子孫が今日の特殊部落の大宗をなしておる。」という記述があるわけなんです。この問題は官房長官あるいは総務長官、灘尾厚生大臣は、こういうものが自民党の議員懇談会から出されておるのを御存じか、どうか。